アイドルのあざとさを受容できる大衆の精神性に疑問を持ちながらも、自身のアニオタっぷりに疑問を呈する話

よくアイドルと握手だ、アイドルと話せるだなどの、サービスがある。最近だとようつべマンとか、あとスターブロガーとかだ。

僕がよく思うのは、連中が何億とか何千万とか何百万とか稼いでいるのに関わらず、笑顔や愛想をよくすることで、その金を受け取っているにも関わらず、ファンたちは盲目的に、注目やお金を貢ぐということだ。

特にヨウツベマンはひどい。お金を受け取って、商品紹介しているというのに、視聴者はそんなこと気にせずに、脳死状態で、「あーこれが欲しい」と購買意欲を刺激されて、消費を促される。何億も稼いでいるヨウツベマンが、全サイズのマックや、キンドルオアシスなんぞを勧めているシーンなどを見ていると、経済格差をまざまざと見せつけられているにも関わらず、大半の視聴者はただ欲しいという欲望だけを刺激させられる。ああいった動画が再生数を伸ばしている状態を見ると、軽くめまいを覚える。

 

これほど歴然と、格差を見せつけられながら、お前たちは何も感じないのか?

 

人気者は評価と金を得て、貧乏人にはそれを見せつけられ、さらに消費をするために奴隷のように働かせられる。その事実にお前たちは気がつかないのか?

 

僕はヨウツベマンどもは、エンタメテロリストと勝手に呼んでいる。

 

楽しい気分にさせて、まともな判断力を奪い、広告を見せつけ、洗脳して奴隷にさせる。ある意味、情報商材を売る詐欺師よりも、害悪かもしれない。なぜなら、金を儲けようという、意思すらも奪い、ただ消費する奴隷へと誘うからだ。

 

パンとサーカスという言葉を今こそ大衆は知るべきだろう。

 

しかし、翻って僕はどうだろうか。実をいうと僕もサーカスを積極的に見に行っている。アニメやマンガや映画がそうだ。クリエーターが客のために作った作品には、広告がないが、楽しい萌え萌え4コマ日常もので、生きるための力-金を稼ぐための能力だったり、人と付き合う能力などを失っている気は、自分の身のことながら、思う。

 

では、同じエンタメでありながら、ヨウツベマンと、オタクコンテンツの差はなんだろうか?一つに金儲けのために作品を作っているかということがあげられる。ヨウツベマンなんて、どうせどいつもこいつも自分の利益のためにしか動かないクズ(完全に偏見)に決まっている。そうでなければ、経済格差がありながら、商品を紹介することなどできないはずだ。それができるのは、無知かクズかのどちらかでしかない(完全に偏見)。どちらにせよどうしようもない。

 

しかしオタクコンテンツは、オタクが純粋にいいものを作りたいという夢の元に作られている。だからこそ、人々を真の意味で、笑わせ、感動させることができる。だから僕はオタクコンテンツの方が好きだ。

 

けど、どうなんだろうな。もしオタクコンテンツを作っている連中が、何億も稼いでいて彼女をたくさん作っていたら、ヨウツベマンを批判したように、クリエーターを大衆を奴隷に誘うエンタメテロリストと罵倒したかもしれない。

 

ようはうまくいっている連中を陥れるために、論理を組み立てる、ルサンチマン的思考、創造的回避なのかもしれないよな。

 

うん、それだけ

 

僕の仕事は YouTube

僕の仕事は YouTube

 

  

新版YouTube大富豪7つの教え

新版YouTube大富豪7つの教え

 

 

以上

 

創造的回避とルサンチマン

最近考えてることをつらつら

 

創造的回避というものがある

何かをやろうとした時に、それをやらなくていい理由というのを、実にクリエイティブに発想してしまうという現象だ。テスト勉強をするときに、掃除がはかどってしまうというのが、まさにそのいい例だ

なぜこの現象が起きるのかというと、脳には現状を維持しようとする機能があるからだ。僕の場合、毎日ツイッターニコニコ動画を見てしまい、それらの習慣をすることを快適だと思っている。その人が快適だと思っている習慣や生活をコンフォードゾーンと呼ぶ。コンフォードゾーンの外に出ることを、人は不安になる。だからどれほど何かをやりたいと望んでも、現在の不満だけど快適な生活に甘んじることになる。

現状の快適な生活をするために、人はできない理由を、時間がないや、金がないなど、とクリエイティブに発想するわけだ。

 

そしてルサンチマンである。

ルサンチマンは一言で言えば、強者は強欲な悪であり、弱者は清貧な正義であるという論理体系だ。自分たちよりも優れている人間に嫉妬していながらも、強くなろうとする努力を放棄し、代わりに、自分たちの境遇を正当化するために、弱者であることが正しいという論理を組み上げる。

 

これはまさしく創造的回避であると言えるだろう。本来は強くなろうと努力することが、正しいにもかかわらず、弱者である現状を肯定するために、強者の揚げ足を取ろうと必死になる。

例えば金持ちやモテている人間は裏で悪いことをやっているなどだ文春が成功している芸能人のスキャンダルを取りあげるのも、大衆が強者が悪であった方が都合がいいからだ。そうすれば、弱者が道徳的に優れているという優越感に浸ることができるからだ。実際はそんなこともないのに。

 

僕自身も、そういった弱者を肯定する論理をくみ上げていた。ま、群れている奴ら、群れてないと楽しめない馬鹿どもめ、とかそんなんだ。実際は、みんなで楽しんでいて羨ましいけど、それを認めてしまうと、一人でいる自分の立場がなくなってしまうから、連中を馬鹿だと嘲って、現状を肯定するわけだ。一人でいるというコンフォードゾーンから抜け出さないために、クリエイティブに発想するわけだ。

 

その分の発想を、友達を作ったり、成功するためにリソースを振れば、今頃成功していたかもしれないのに、不幸でいることすら快適になってしまう弱者に、僕を含めて大衆はなってしまう。

 

そういう構造や仕組みに最近になって、本を読んでいて気づいた。気づいた以上、やはり自分の人生を豊かにするために、努力したいなあ、と思う今日この頃でしたとさ

 

とりあえず、ニコ動とツイッターやめて、読書と勉強にリソースふりする。あと友達と恋人作る。

不幸な現状ではなく、幸福な未来に向かうために

 

道徳は復讐である―ニーチェのルサンチマンの哲学 (河出文庫)

道徳は復讐である―ニーチェのルサンチマンの哲学 (河出文庫)

 

 

 

2050年の衝撃の未来予想の感想。やはり好きなことをするのが一番くせえ

 

2050年 衝撃の未来予想

2050年 衝撃の未来予想

 

 読んだ。面白かった。完。だと味気ないから感想をつらつら。

 

未来予想本はやはり人気のあるジャンルで結構それ系の本は多く出ている。それってなんでかっていうと、やはり未来の情報がわかっている人間が儲かるってことだからだろうな。

バックトゥザヒューチャーでも、競馬レポートでビフが大儲けしてたしね。いや、あれは予想というか、過去に実際に起きたことなんだけどさ。儲けたって言っても、ギャンブルなんだけどさ。

 

例えば、馬車が走っていた時代に、蒸気機関車が出てくることを知っていたら、当時の人は馬に乗ることを仕事にしなかっただろう。

そして現在の蒸気機関車に当たるの人工知能なわけだ。今話題になってるよね、人工知能が仕事を奪う!!!だから好きなことを仕事にするんだ!!!ってなことさ。でも実際、みんなためらうじゃん。

そうはいっても食うために、会社に従属しなければいけないじゃんってさ。僕もどっちかっていうと、会社に従属するべきでは?という懐疑的な側の人間だ。でも、この本を読むと、やはり好きなことをするべきなんだな、と納得する。

 

以下要約アンド面白かったところの感想

 

なんで2050年?20年じゃあかんの?

例えば自動運転技術が今話題になっている。だけど、その開発自体はすでに1980年代に完了していて、開発者からしてみれば周回遅れの話だ。「自動運転こそ未来の社会だ」って騒がれてるけど、そんなもん未来じゃねーよ、自動運転技術の特許が切れてメーカーが実用化に向けたコスト削減競争してるだけだ。

言い換えると、仮に1年後の株価を知って儲けても、それは資本家が描いた絵に乗って儲けさせてもらってるだけ。同じ未来予想に乗せられた投資家は食い物にされる。同様に、5年後生き残る職業を知ってスキルを磨いても、その職業自体が奴隷的労働に従事させるために生み出された職業である可能性が高い。

だから、未来を知って、より良い未来を変えたいと思ったら、5年後10年後の予想は意味がなく、少なくとも今開発中の技術が切れる20年先、さらに、その技術が一般化して、社会に変化をもたらす30年先、40年先まで予想する必要があるってこと。だから2050年。

で、現在、人々が常識として疑わない考え方は、世界の支配者たちによって刷り込まれた抑圧された思考で、このまま変わらなければ、悲惨は歴史が繰り返されてしまう。だけど30年先、40年先ならば、世界の権力者も把握しきれていない未来だ。そこに向かってマインドを変化させていくことが、権力者たちさえも縛るバイオパワー(人間を抑圧する生権力)の呪縛から脱し、人間らしく生きるための唯一の方法である。

 

ってなことがはじめに書いてある。

 

ま、この辺の、「権力者の洗脳から人々を解放して、真の自由と幸福を手にしよう」っていうテーマは、苫米地氏の著作で一貫されていて、苫米地氏の戦争と飢餓のない世界を作るっていうゴール達成ための活動なんだろう。

 

高齢社会ではどうなるか?

2050年には平均寿命が120歳だ。「60代、70代は働き盛り」「90代でも若造」の時代になっている。いやはや想像すると凄まじい世界ではある。30年ごというと僕は50代になっているが、それでも若造より30歳若いときたもんだ。50代の赤ちゃんかな、バブー。

んで、苫米地氏はここで、活躍するために、高齢者とのコミュ力鍛えておけってなことをアドバイスしている。まあ妥当だ。コミュを円滑にするために必要なことは、「社会性の高さの有無」だってことだ。煩悩を満たしてきたその時代に長年社会で活躍してきた老人にとっては、利己的な欲望を超えて社会に役立つかどうかが関心ごとで行動原理になって胃いるからだ。まあ、こちらも妥当だ。

平均寿命が120歳って言ってもいいことだけじゃなくて問題もある。みんな嫌いな年金問題だ。まあ、物理的に老人が増えて、若者が減るんだから、そりゃあ破綻するに決まっている罠。で、そのための対策っていうのは政府が出す「一億総活躍社会」って奴だ。「総活躍」っていうとなんだか戦隊ヒーローの歴代戦士が全員出てくる映画みたいな感じだけど、要は「男も女も老人も、1日でもしっかり働けや」っていう政府のお達しってこと。「総活躍」という名の「奴隷社会」ってこと。ファック。

 

金融資本家が99・999パーセントを支配する

しかし、高齢化社会よりもやべーことがある。それは企業が仮想通貨を発行することだ。国家の概念が喪失し、仮想通貨がメインになっている社会は、「超格差社会」だ。経済がサイバー空間に移行するとなぜ格差が拡大するか?サイバー空間の中で経済を動かしている人々は、事実上、限界費用がかからない。広告で儲ける、情報で儲ける、投資で儲ける、など限界費用がかからないため、無限に生産性をあげることができる。

桁違いの資産家が大量に生み出される一方で、依然として限界費用に縛られた物理的労働を強いられている大多数の工場でロボットの管理や整備に携わる人々は相対的に貧困へ追いやられることになる。

その情報空間の通貨で無限の富を得ようとする金融資本主義は、今後民主主義を破壊することになる。だって無限にある情報空間の金で政治家を買収すればいいのだから。

そうやって自分たちに都合のいいルールに作り変えて、さらに貧困者を搾取しようとする。それがTPP。詳しくはこの本を読めばいい。

 

虚経済が支配する世界

金融資本に取り込まれ、奴隷や囚人扱いされている大多数の人々が、自身の惨めな境遇に気づいていない。

例えば年収1000万円が「勝ち組」と呼ばれ、年収300万円が「負け組」と呼ばれる。しかし金融資本家の代表格である、ウォールストリートの平均年収は「650億」で、彼らからすれば、どちらも等しく奴隷的労働者でしかない。その事実に向けさせないように、金融資本家はメディアを利用して、「勝ち組」「負け組」という社会の階層化をする。ようは奴隷が自分をつないでいる鎖を自慢させ合っていること。不満や憎しみを奴隷同士に向けさせて、金融資本家は悠々自適な生活をするってこと。ファック。

しかし年収300万円もあれば、一人で生活していくのに十分だ。なぜ人は年収1000万円を目指していくのか?それは虚ニーズを人生において価値のあるものだと刷り込まれているからだ。

CMや広告は、人間性に溢れる豊かな暮らしとは直結しない嗜好品や贅沢品を価値のあるものだと宣伝する。必要のないお金を稼ぐために必死になって奴隷をように稼着、奴らの奴隷的労働によって生産された商品やサービスは、さらなる虚ニーズを生み出す。こうして社会には本来必要のない商品やサービスが溢れ、それを得るためのお金が市場価値となる「虚経済」が形成されていく。

これは虚経済を築くことで金貸しとして成り上がってきた金融資本家が、自分たちの支配を磐石にするために仕掛けた「洗脳」である。

 

やりたいことをやるべき理由

日本では「やりたくないことを我慢するからお金がもらえる」「やりたくないことでも自分がやらないと会社と社会も回らない」という、とんでもない誤解がまかり通っている。まさに奴隷の考え方だ(俺が言ってるんじゃないぜ?苫米地氏の意見だ)

そもそも職業とは、お金を稼ぐことが本質ではない。職業の本質的な定義とは、「社会に機能を提供すること」である。賃金は、結果としての対価でしかない。「職業に貴賎なし」という言葉は、「社会に必要とされている機能を提供する」という点で平等だからだ。

お金を稼ぐためにいやなことを我慢して長時間働くという行為は、奴隷同士のチキンレース以外の何物でもない。このチキンレースから抜け出すには、職業とお金を切り離して考えるという革命を頭の中に起こすしかない。

生活保護社会保障制度が批判されているが、成熟した国家としては当然の制度であ流。それよりも批判されるべきな職業イコール稼ぐことという手間が広がるあまり、社会に機能を提供すること自体を放棄する人間を生み出しているということだ。

釈迦は「自分を含めて、この世の全ては他の何かとの関係性で成り立っている」と悟りを開いた。つまり世界は縁起で成り立っている。この縁起を捨てた人間は世界から見放された孤独な存在だ。金融資本主義の行き着く先は、絶対的な孤独であり、人間としての存在意義の消滅だ。これは経済の本来の意味である「経世済民=世をおさめて、民をすくう」とは正反対の結末である。

 

さらに人工知能によって仕事がなくなることが挙げられる。

人工知能があれば、銀行でさえ無人化が可能になり、一般企業の総務、経理などのデスクワークはほとんど人工知能で代替できる。それはシステムエンジニアも同じだ。将来的には、エンジニアは仕様書を書いて、クライアントと交渉するだけの仕事になる。工場のライン作業に代表される単純肉体労働も、人工知能搭載のロボットで真っ先に代替されることになる。さらには公務員も弁護士も官僚も政治家も、総理大臣でさえ人工知能に替えられる、一つの国が一つの巨大な人工知能網で成り立つ世界が訪れる。

 

いやはやここまでくると、SF小説じみてくるんだが、しかし苫米地氏は人工知能研究で博士号を持っている専門家だ。信じるに値するだろう。

 

こういったことを指摘すると「人工知能を過大評価している」「そんなに多くの仕事が人工知能に奪われたら社会が崩壊する」という意見がある。つーか俺がそう。しかし、苫米地氏がいうのは、「人工知能でなくなる仕事」という時代が誤りで、「社会にとって必要のない仕事」だったというだけだ。

本来「いらない仕事」に人々が従事しているのは、単純にコストの問題に過ぎない。労働者を雇うコストと人工知能を導入するコストを比較した時、現時点で労働者を雇う方がコストが安いから雇用という選択をしているだけだ。現時点では途上国の労働者と先進国の労働者の間での争いが、2050年には人間と人工知能の争いに置き換わる。

この場合人間に残された選択肢は2つしかない。生産性を劇的に向上させるか、人工知能よりも安価な労働者として貧困層へと転落していくかだ。

では生産性を上げるためには何をするべきか。資格を取るかITツールを駆使して作業効率を上げるか。どれも違う。スキルアップや作業効率は人工知能の一番得意とする分野だ。つまり一般に生産性を上げるために行うべきとされている努力は、ほとんどが方向性を間違っている。

人間にしかできない生産性、それは効率化や最適化だけではたどり着けない、全く新しい何かを創造したり表現したりすることだ。

しかし「新しいものを生み出す」と言われても実際に何をすればいいのだろうか?画期的な商品やサービスを開発するか? ミュージシャンになるか? 小説家になるか? そもそもクリエーターにならないとダメなのか?

例えば銀行は無人化するが、人工知能搭載の若いロボットよりも年季の入ったおじさんの方が信頼できるというニーズはんコル。教師が人工知能に起き買っても、人間の家庭教師をつけたいというニーズは相対的に伸びる。

つまり、デジタル社会、サイバー社会となった2050年では、アナログである事自体が価値として成り立っている可能性が高い。そして「アナログ=人間らしさ」であり、「人間=自我」である。クリエーターではなくとも、やりたい事を続け、その世界で唯一無二の自我を発揮できれば、そこにニーズが生まれ、価値が生まれる。

だから、これからの時代の「付加価値」とは、決して世間のいうようなデジタルなスキルや狭い専門性ではない。人間が長い歴史の中で培ってきたリベラルアーツを学び、広く深く人間性をみにつけること。その上で、やりたい事をやり、社会のニーズにかなった機能を提供できる人間になる事が重要なのである。

付加価値のある人間になる事。さらに付加価値の意味と方向性を誤らないこと。お金を稼ぐことが職業とは考えず、好きなことに生きること。

今の世の中に即した生き方では、2050年に尊厳のある一人の人間として生きることはできない。未来において目を開いていられるのは、時代の流れとニーズを読み取り、いち早く価値観と生き方を転換させた人間だけだ。

 

ようつべマン最強くさくねえかァ!?

あ、これは僕の意見ね。苫米地氏がいきなりようつべマン絶賛したわけじゃない。

うーん、こういうの読むと、ようつべマンたちの「好きなことで生きていこう」といううたい文句が、いよいよ未来の生き方で、幸福な生き方なんじゃないかと、信じ始めている。ヒカキンやはじめしゃちょーが今一番最高に幸福な奴らなんじゃないか。実際連中幸せそうだもんなぁ。めっちゃ儲けてるし。

あるいはテキスト界隈だと、プロブロガーか。自由な生き方を教えます!!みたいなことやってるもんなあ連中。会社員や公務員になる方にリソースを振るんじゃなくて、そっちのプロブロガー養成講座みたいなのに入って、本格的にブログを書くってことも結構ありなんじゃないかと、今の僕は思っている。

しかしどうなんだろう。やはりその場合も、書くことが好きってことが重要なんだろう。あの界隈は、なんか好きでやってるってより儲かるからやってるって感じであまり好きじゃねーんだよな。まあ金で釣るのが一番効率的なんだろうけどさ。書くことが好きなら習う前に、とっくに書き始めてる気がするんだよなあ。よってブログ講座いらなくねえか。いや、そんなこと言ったら世の中全ての習い事がだいたいそうか。

 

おわりに

翻って、僕の場合はどうすればいいんだろうね。プロブロガーに俺はなる!!!ドン

っていう感じではないんだけど、僕も本格的にブログ界隈に参戦しようとは思っている。書くことは好きってことでいいんだと思う……多分。小説書いてたし。ただ、いいもの書きたいって欲が出ちゃって、書き始められないっていう、典型的なあれを発症している。

プログラミングも好きかはまだよくわからん。今の所コードをひたすら、模写して、これこれこういうコードはこうなるみたいなことをやっている。やっていること自体は、完全に作業だ。模写するだけなら、それこそ人工知能にやらせておけばいい。つーかシステムエンジニアの仕事が人工知能に乗っ取られるって言ってんだから、プログラマーも安泰の職というわけではい。ただコードを書くことそれ自体が好きなことで、新しいものを作りたいという「自我」があれば、「欲望」があれば、僕にもできるだろう。

 

あと、僕はアニメや映画や、ネットサーフィンして動画やらニュース見るのが好きなんだが、これをやってても儲かりそうにないぞ?儲かることじゃなくて、好きなことやれって言われたけど、さすがに儲からないぞ?だって何も生産してないもん、ただコンテンツ消費してるだけだけだもん。苫米地先生どうなんすか?

ま、これは単に僕の自己評価が低いから、そういう低次元な遊びにはまっているということだ。自己評価が高ければ、自ら何かを生み出したいと思うし、最近は自身がつき始めてきたから、何か書きたいと思っている。

 

文章やコードを書いて、それを好きなことにして、付加価値をもたらしたい。2017年時点ではそんなことを考えております。今のところは好き勝手にブログに書き散らしていく所存。

 

さて、2050年にはどうなっていることやら。好きなことをやって楽しくやっていたいものだ。

 

2050年 衝撃の未来予想

2050年 衝撃の未来予想

 

 

そんな感じ

 

以上

テレビのCM見ても、全く欲しいと思わないのって僕だけ?

やあ。しんれーだよ。

みんなってテレビ見ているのかな?僕は最近ここ5年くらいまともにテレビ見ていないよ。部屋にテレビがないからね。その代わり、ニコニコ動画は大量に見ているから、読書時間が増えたわけじゃないので、頭が良くなったかっていうと怪しいところではあるんだけどさ。そこは意識的に見ないようにして、時間を確保をしているところだ。後、映画とかアニメもネット配信で見るようになった。DVDのない生活に慣れて久しい。

それでも時たまテレビを見るんだけど、テレビってめっちゃCMあるよね。バラエティ番組とか見ると、この後すぐって、言って全然すぐじゃなくて、やっと見れたら気になるところですぐCMってさ。もうCMが本体っていうレベル。よくこんなものを少年時代よく見てたなって我ながら思う。つまんねーものを長々と見せられて、バカ笑いに、バカなテロップに、購買意欲を無理やり促進させるCMときて、3バカこりゃ脳みそ溶けますわww

僕の場合、好きな映画やアニメですら、展開が遅いから、2倍速にして見てるわけでさ、内容がない番組なら、なおさら内容がなさすぎて、栄養の全くない麻薬の入ったコーラを飲んでいるような気分だ。

 

ただ内容もない番組がクソだってことは当たり前の事実だとしても、少年時代は熱心に見ていたわけだ。見ていたならば、CMもこれまでたくさん見てきたわけなんだけど、そうでなくとも、現在進行形で、webサイトのアドセンスも見ているわけなんだけど。購買意欲を促進させるはずのCM見ても、宣伝されている商品やサービスを全く欲しいと思ったことがないんだよな。これまでずっと、これぽっちも。

 

この現象を自己分析してみると、多分僕は興味の対象がかなり限られている人間なんだ。頭がいいから、購買意欲を上げることができなかったわけじゃなくて、興味のあるものしか買わない、っていうデフォルトの固定設定がなされている状態で生きている人間で、普通の人間はその設定が欲しくなれば買うなんだ。

 

少年時代から、僕が欲しいものはほとんど決まっていて、小中学校時代なら、ゲーム一辺倒で、高校はラノベ、大学は映画と本、といった感じで、趣味で買うものはずっとほとんど決まっている。ゲーム、読書、アニメ、映画、これをローテーションするだけ、をかれこれ15年くらい続けている。それ以外は、ほとんど生活必需品を買うのみで、余計な出費をしないんだよな。あとはネットサーフィンで無料のコンテンツを楽しむのみで、つくづく消費というものをしない。ここ1年くらいは、はてなブックマークが面白くて、ブクマアンドブコメを読んで、はてな村ってなんぞや?っと勉強している。いや、勉強することでもないんだけどさ。

 

こんな感じで、省エネ気質な、氷菓の折木くんみたいな性質で、興味のあるものしか買わない、っていうデフォルトの固定設定がなされているから、CM見ても全く買わないと思わないんだよね。

 

何でこんな話してるんだっていうと、今読んでいた苫米地氏の本に、CMに洗脳されて、欲しくもないものを無理やり買わされてるんじゃね?消費することが豊かだと思い込まされてるんじゃね?みたいなことを書かれていて、その点は、僕は大丈夫だよな、と思ってた次第だ。

僕を含めて、最近のネットネイチィブの若者はこの傾向が強いんじゃないかな。

 

ま、その代わり、消費じゃなくて、好きなことで生きていく、みたいな、ライフスタイルを提供する新しい形で洗脳されてるんじゃねーかと、自分を打ち出して承認欲求満たしたい欲を煽ってるんじゃねーかと、僕なんぞは危惧してるんだけどさ。

 

僕も、「俺は◯◯なんだ!!!」ってな感じで自分を打ち出して、他者と差別化して目立って、承認欲求を満たして、その末に女の子とくっつくべきなんだろうな。気が乗らないけど。

 

やれやれ、なんだかね

少子高齢化問題は問題じゃないっ!!!

人口が減れば、税収が減り、それに合わせて政府支出も減っていくのだから、日本人が経済的に困ることはない。その時困るのは、自分の使える分だけの金を維持して、利権を守りたい官僚だけだ。人口が減り、経済規模が縮小しても、官僚の人数を減らしたくないし、それどころか給料を上げろとさえ要求する。

御用達、金の亡者である経済学者たちは、こぞって「人口が減れば大変だ!!国が成り立たなくなる!!」と危機を煽るが、日本人は狭い国土に1億2000万人もいるのだから、むしろ半分くらいに減ったほうがいい。

税収が減ることで国家経営の高コスト体質も改まるはずだから、国民はむしろ喜ぶべきだ。

GDPを成長させなければならないというのは、官僚が仕掛けている幻想であり、彼らの論理は「それを成長させなければいけないから、財政を立て直し、政府が使える金をもっと増やさなければならない」ということだ。年金問題や介護問題などの社会保障も根は同じである。

高齢化社会で、お年寄りの介護で大変だ!!だから政府が使える金をもっと増やせ!!と危機を煽り、搾取しようとするのが、奴らの常套手段だ。

 

だが、負担増に見合うだけの社会福祉が国民に提供された試しなどない!!!

しかも、だ。国民が苦しみと不満をぶつけると、不満を解消するために、税金をもっと上げる必要があるなどと、ふざけたことを言い返してきやがる!!!!

 

官僚というのは、国民の不満や国家の危機を食い物にして、焼け太りする醜い生物だ!!!!!!!

 

てなことが、経済大国なのになぜ貧しいのか?という本の一部に書いてあった。言い方をちょい派手にしているけど、要旨は同じだ。

 

経済大国なのになぜ貧しいのか?

経済大国なのになぜ貧しいのか?

 

 

ほんと、苫米地氏の本を読んでいると、権力が大嫌いになる。搾取されないためには搾取する側に回るか、それとも搾取される人々の側になって戦うか。俺は後者をやはり選びたい。大嫌いになった以上、そいつらの側になるのは、俺の良心が許さない。

こういう自分の心理を観察すると、なんだかんだ言って、アニメやマンガの力ってすごい。今まで何千何万回と、正義の側に立って戦う主人公を見てきておかげで、俺はこうやって正義の側に立ちたいと思える。ま、何が正義で何が悪なんだって、いう論争も何度も見てきて考えさせられたわけだけど、こういう権力者が弱者を搾取するという構図は、憲法に定められている平等という観点から許しがたいだろう。

 

誰もが自由で平等で幸福な生活を歩むことができる社会こそが、最も理想的なわけで、人類はその夢に向かって、今まで思索を深めてきた。

21世紀はその夢にようやく至る世紀になりうる。その壮大なプロジェクトに参加している以上、俺も何かで貢献したい。

 

ってな、誇大妄想な夢を持っているんだけど、さすがに厨二病がすぎるかね?

 

とはいっても、「道徳なき経済は犯罪であり、経済なき道徳は寝言である」という言葉通り、俺がどれほど道徳を説いたところで、それは寝言にしか過ぎない。道徳なき経済、犯罪に立ち向かうためには、こちらも経済が必要になる。

 

何が言いたいんだっていうと、金が稼げるようになりたい、ってことだ。

 

こんなことしてねーで、就活頑張るか

 

それだけ

 

以上

アニメ見ていて、恥ずかしくて痛くて、もう見てられない、ってことない?

メイドラゴン最終回見たんだけど、最後までまともに見れなかった。ていうのは、なんか恥ずかしくて、見れなかった。いや、メイドラゴン自体は、かなりいい作品で、現代における家族観にもう男性はいらないもんなのかな、とかって考えさせられて結構勉強になった。見れなかったのは、作品が悪かったからじゃなくて、俺が勝手に恥ずかしがってただけだ。

小林さんが、トール父親に、上条さんよろしく説教をかますっていうシーンがあったんだけど、なんか見れなかったんだよな。

なんか痛くってさ。

こういうことってこれまでのアニメ人生の中でも何回か起きたことがあって、上条さんの説教フェーズも俺は見れねーんだよな。

 

figma とある魔術の禁書目録II 上条当麻

figma とある魔術の禁書目録II 上条当麻

 

 

あと、私モテもあまりに痛々しくて見ていられなかった。お前は俺か。はずいはずいはずい。いてててて、やめろ、その攻撃は俺に効くってな感じでさ。

 

 

おそらくそれって共感的羞恥と呼ばれる現象らしいんだけど、俺も結構わかるし、人の恥ずかしいシーンを見て、恥ずかしくなって、もう見ていられなくなってしまう。 

togetter.com

あとけものフレンズのライオンが「うちの子に手を出してんじゃねーぞ」っていうドスの利いた声で言うところも、いててててってなって見るのが辛かった。なんだろうな、キャラがキャラをやり過ぎていて、現実と乖離していて、その高低差で耳がキーンってなっているってことなのかな?いや、現実でないものを夢を見るための、フィクションに何言ってんだって話なんだけどさ。

 

あとさ、俺の大好きな化物語もさ、活字だと、厨二病てきなセリフ受け入れられんだけど、いざアニメになって映像で見ると、キャラたちの応酬が痛くて、こんな痛い応酬を地上波で何万人という世間の人たちが見ていると思うと、かなりいたたまれなくなるんだよな。なんて言うの、内輪で盛り上がっている限定的な、ネタを外に披露して、滑ってる感じ?いや、化物語自体は、結構ギャグ受けてると思いますよ?まあギャグって5割の人に受ければ、万々歳っていう、泣かせるよりも難しい技法だと、個人的には考えていて、その点でやはり化物語は頑張ってると思いますけど、でも、さすがにお茶の間にパンツ、とか幼女、とかおっぱいとか大真面目に披露されてもなぁ、いや俺はいいんすよ?西尾先生まじぱねぇっすって喜んでるし。

 

ま、多分これは、アニメに対する没入感が足りないってことなのだろう。没入感あれば、あまり気にらないないんだろうな。中学生くらいの時に見た、クラナドとか、大学時代に見た、エルフェンリートとか、かなり没入してみてたから、涙ボロボロ流してたもんなぁ。

素面で見てたら、涙を流すようなシーンも、痛くてあざとくて見てられなかったんだろう。

 

何が言いたいんだっていうと、アニメを見るときは、もっとアニメに集中して、人のこととか考えず、自分が思ったことを言いたいよな、っていうことだ。

化物語の羽川のパンツシーンを初めて見たときなんかは、中高生だったけど、世間の目なんか気にしてなかったもん、すげーパンツだー!って知能指数80くらいで喜んでたもん。多分それが一番楽しい楽しみ方だし、世間の目なんか気にせず楽しむのが健全だ。

 

世の中楽しんだもん勝ちだ。他者の目を気にして、不幸になることほど、くだらないこともない。

 

つーわけで、もっと良いアニメライフを送りたいです、っていう意見表明だ。

 

それだけ

 

以上

 

春だ

今日は暖かかった。

季節の変わり目を感じる。

春ってことはもう就活を始めるべきなんだが、とりあえずインターンに行ってみるべきなんだろうな。

しかし、まだプログラミングの勉強が終わっていない。はかどっていいない。

できてなくとも、とりあえず申し込みだけやっておけばいいのだろうか。うーむ、足手まといになる気ががががg。

ま、こういう自己評価の低さが、今まで俺自身のスペックを著しく貶めてきたのだろう。

底辺学校に入ったのも、大体それが原因だ。

しかし僕がメンターとするドクター苫米地からすると、時間は未来から流れているという。つまり自分が見た想像が、現実になると云う。

 

立ち読みしなさい!

立ち読みしなさい!

 

 

今、僕が見ている未来は、paizaのレベル判定でAランクを取っているという姿だ。そうして自分が所属する会社、ないし社会に対して、貢献することができれば、何よりの幸せだろう。そのくらいのスキルがあれば、食っていけるだろう。

今まで何も生み出さず、ただネットサーフィンして動物的によくを満たすしていたのとはおさらばだ。それは過去の情報でしかない。未来のみを、ゴールのみを、成功のみに意識を向けることで、あなたは成功するし、幸福になれる、というのが苫米地博士の教えだ。その教えはきっと正しいのだろう。

プログラミンができれば、それを実現する助けになると、今のところは信じている。Aランクも取れれば大丈夫だよな?

どこかの記事で25歳既卒がAランクの技術力があったおかげで、優良企業に就職できました、ってのがあったから大丈夫だろう。

僕はあまり人と話すのが、得意ではないし、そのおかげで友達もいない。ただ、学生時代は、本を読んで、小説とかを書いていた。ま、その技術を生かして、ブロガーになるっていうのも一つの手といえば手なのかもしれないけど、あまり、僕はマネタイズ向きじゃないだろう。

ただ、一人で黙々と何かを作るってことはかなり得意なんだと思う。その特性を生かして、プログラミングをやるっていうのは悪くない判断だと思うんだが、今のところドットインストールプレミアム会員になってひたすら、説明聞きながら、コードをしゃけいしている。このコードでこれこれこういうことになるんじゃよ、とっていうのを確かめつつ進めている。

しかし、あまりはかどっていない。いや、このはかどっていないという意識そのものがはかどらせていない。

うまくいっている未来のみに、臨場感を抱くのだ。

 

うまくできている、うまくできている、ブツブツブツ

 

話はすげー変わるが、最近は筋トレにはまっている。はまっているというのはさすがに言い過ぎか。さっきまで腹筋とスクワットをしていた。していたおかげで、いい感じにセロトニンを分泌させたので、こうやってブログを更新できている。やる気が出ないと、更新することも億劫になる。こういうてけとーに書き散らしているだけでも、結構気晴らしになるし、続けることそのものが価値になるわけだからやるべきなんだろな。

 

結論、筋トレ、勉強、就活、ブログやる。

 

もう新年度だ、春だ、やる。

 

それだけ

 

以上

けものフレンズのツイートをまとめる

けものフレンズが終わった。いやー、11話の終わりでは心を折られて、しんざきお兄さんにすがる人もいたけど、最終的にハッピーエンドでよかったよかった。僕もけものフレンズのおかげでここ数ヶ月はかなりたのしめた。満足(スナネコちゃん風)

けものフレンズの魅力の一つとして二次創作が豊富ってことも挙げられるだろう。僕はずっとツイッターを巡回して面白いものはひたすらいいねしといたんで、この機会に放出しようかと思う。ちなみに僕はアライさんが一番好きなキャラだ。アホの子かわいいっすよね。

 

すごーい!まとめが得意なフレンズなんだね!とでもサーバルちゃんみたいに褒めてくれたら嬉しい。

 

けものハンターじゃないところがミソ。それだとフレンズを狩ることになってしまう。

そんなことないよ!

すごーい!パターン認識の得意なフレンズなんだね

これでヒグマが好きになった。理由はわかるな?

こういうの好き

勇者のフレンズ

これは地味に笑える。違う世界線ならなれたかもね

これも好き。おいしいものを食べてこその人生なのですには、毎回ウルッときてしまう

もはや宗教

やっていることは完全にマネージャーだ。マネジメントの重要性を教えてくれるけものフレンズはやはり名作

デフォルメかわいい

すごいのだー!!アライさんいいっすよね

ツチノコちゃんはすらりとした素足が素敵だ

フクロウコンビと一緒にお料理したい。料理の勉強がはかどりそうだ

キレイだよ。アライさん

やはり女の子は笑顔が一番だ

どすけべ

ドヤてれいいっすね

本当に素敵な色紙だなって思う。料理を作ってあげたくなる。おかわりをよこすのですって言ってもらいたい

隠れたどすけべ

よかったね。2期が始まるから、まだまだお別れはないよ

洋ゲー感溢れるリアリティ

夢のコラボ

こう言う前日譚好き。謎はまだ残っている

念能力者のフレンズ

わかる

映像の世紀好きとしては、とても嬉しい。あのBGMを流したら大抵無駄に壮大になる

退廃感ある

やっぱりどすけべじゃないか!!

こういう甘えさせ合いの百合は好物ですぞ。じゅるり

オサレ

こう言う関係性のすれ違うは切ない

NHKにありそうな番組。ていうか、ハルヒが放映されたんだから、絶対そのうちNHKでやるよね

二人が仲よすぎて尊くてつらい

こう言う展開のSFの同人あったら欲しい

かわいい

夢のコラボ2。ポケモンも友達がテーマだから、実質けものフレンズみたいなもんだろ

サーバルちゃんのdがいい味出してる。スープなだけに

うん…うん……うん………(涙を流しながら)

妄想が捗る。じゅるり

 かばサバはやはり尊い

普段ぼーっとしている娘が隠れた特技を見せて、周囲の人を驚かせるシチュ好き。つまりこの絵が好き

最終回は熱かったっすね。こういう少年漫画のノリはやはり燃える

条件分岐した違うエンド。このエンドはこのエンドで、切なくて泣けると思う

ネタ枠。石器時代にしてやる、っていうセリフはなかなかいい。蝋人形にしてやろうか、みたいな。いつか創作上のキャラに言わせてみたいセリフだ。

かばんちゃんが最高にかっこいいイラストだと思う。覚悟を決めた目をしている。絶対手強い

生活感あって好き。絶対ジャパリカフェ東京のどこかで開店するでしょ

プログラミングでこう言う遊びができるようになりたい

現実でジャパリカフェが開店したら、絶対カレーあるよな。辛いのです、おかわりをよこすのです、まで言うのがテンプレ

これも商品化されそう。関係ないけど、こういうの見ると、Jリーグカレーを食べて男の子がラモスに変わっていくCMを思い出す。印象に残りすぎだ。CMとして成功

うん、みたい。第2期の最終回でありそうだ。サーバル都会に行く、みたいな

こちらも2期の最終回。最終的にかばんちゃんは人間界で暮らすんでしょうかね?

壮大

ネタ枠2。ドッタンバッタン大騒ぎしているし、実質けものフレンズ(違う)

浄化される

頑張ろう

3話はとてもいい話でしたよね。仲間を見つけるためには、まず情報を発信するところからっていういい例。僕もブログで情報を発信して友達が欲しい

実際けものフレンズは生物の教育に一役買っているのではないだろうか

この絵でかばんちゃんが美人だったんだと、ハッとさせられた

かっこいいポスト。映画化決定

友達欲しい

なんか動物多いっすよね。みんな動物好きなんだろうな

条件分岐した違うエンディング。元ネタは漫画版ナウシカ。名作だからみんな読むといいよ。鬱展開だけど

世界観を表していてグッド

イメージイラストっぽくていい

伝説はここから始まった

 

ってな感じで、個人的に良い、と思ったものをピックアップしてみた。参考にしてみてくれ。

 

 

ドリンクバーのメロンソーダとイチゴオレがうますぎる

ドリンクバーが好きだ。最近は近所のファミリーレストランで、ドリンクバーを頼んでパソコンの電源が切れるまで作業をしているのだけれど、そんなに頼んでいるならばすべての飲み物を味を比較検討するのが、ドリンクバーマンの務めだろう。

 

その結果メロンソーダをイチゴオレが一番うまいことがわかった。というか今現在飲んでいるのがイチゴオレとメロンソーダで、これは一番最初に注いだものだ。そして思い返して守れば、毎回一番最初に注いでいる。それだけ好きということなのだろう。

 

イチゴオレはいい。甘ったるくて甘たるくて飲むと甘い香りのするひらひらの服を着た女子小学生になった気分になれる。

メロンソーダはいい。溌剌な炭酸にフルーティなメロンが混じって、体育会系の汗臭いブルマ女子中学生になった気分になれる。

 

このノリでいくならば、コーラは八重歯の元気っ子だ。

ダージリンは、おとなしくて清楚なお嬢様だ。

 

重要なのは、ドリンクを飲むことで、その娘を想像したり接吻したりするのではなく、なれる気分ってところだ。

 

付き合いたいたくないわけじゃない。付き合いたいさ。

でも僕はなんというか、そういう下心満載のあれなあれがあまり好きじゃなくて、日常美少女アニメに出てくる、女の子たちに混ざってキャッキャうふふで心をピョンピョンしたかっただけなのだ。

 

あれ、ただの願望?

 

ドリンクバーの話から俺の願望のだだ漏れへとなってしまった。

 

しかし、それにしてもメロンソーダとイチゴオレはうまい。

糖分×糖分の二乗で、血液まで甘くなってしまう勢いで、あまり健康に良くないことはわかっているが、うまうものはうまい。

 

そのバランスを保つためにも野菜ジュースがあるわけだ。

 

あ、野菜ジュースは真面目な委員長キャラな。

 

あー、委員長とも甘い青春が送りたかった。羽川みたいな委員長キャラと、放課後の文化祭の準備とかしたみたった。

 

あれ、ただの俺の願望?

 

ま、要はいろんなジュースを飲めるっていうのは、いろんな女の子と遊べる、あるいはいろんな女の子になれる、くらい楽しい行為なんだよっていう話だ。

 

それだけ

 

以上

キョン子かわいい。女の子になって、SOS団に入りたいだけの人生だった。もう全員美少女キャラでハルヒやってほしい

キョン子がかわいい。俺がキョン子に出会ったのは、中学生くらいの時だったか。当時、姉に教えてもらってニコニコ動画を初めて見始めた時、当時の興味はハルヒにあった。なので、ハルヒ関連の動画を探していた時に、性転換してみた、という動画があった。

美少女キャラが男になるのには、正直あまり萌えを感じなかった。抵抗がある。しかし、キョンの女体化はこれはあまりにかわいすぎた。

www.youtube.com

なんなのだ、このかわいさは。あのやれやれ系主人公キョンを美少女にすると、ダルデレ美少女の誕生だ!!これこそが萌えだと、あの時ビビッときた。萌えってか、惚れって感じ。キョン子惚れ〜。

この歌を歌っているのも歌い手というのも僕には新鮮だった。微妙に下手くそなところが、逆にキョン子っぽさを出していて、僕は萌え萌えだった。

キョン子の倦怠ライフはアイポッドにダウンロードして当時通学途中に何度も聞いていた。

 

やめとけとーいうべきかーどうせ徒労だろ

返事などー聞いちゃいねー、無駄に走るだけさ、転ぶぞー

 

キョン子ちゃんのダルデレボイスで歌詞が再生されるわー。

 

しかし、僕が思うにですね。ハルヒは、性転換して、もう一度放映されるべきだと思うのですよ(キリッ)いや性転換って言っても、ハルヒ長門が男になってしまってはいけないのです。全員女の子になってほしいんっすよ。

ごちうさやひだまりやゆゆ式みたいな漫画タイムきららの日常美少女萌えアニメみたいにですね、SOS団も全員美少女になるべきだと、僕は強く主張したいわけですよ。

 

ホモの古泉はレズの古泉一姫になってですね、顔近いぞ、とかってキョン子と絡んで欲しい思うわけですよ。ブヒブヒ。キョン子ハルヒに胸揉まれて、あんた胸ないわね、とかいう絡みをやって欲しいわけですよ。ブヒブヒ。キョン子長門に、メガネないほうがかわいいと思うぞ、と百合百合してもらいたいわけですよ。ブヒブヒ。

 

これって俺だけの妄想?変っすかね?

 

告白しちゃうと、俺結構百合豚なんだよね。

百合男子 完全版 上 (百合姫コミックス)

百合男子 完全版 上 (百合姫コミックス)

 

 俺これ読んだけど、すごいっすね。ゆるるりが名指しで、結衣✖︎京がカップリングされてたわ。いやー、俺も人の事言えないけど、男子が百合妄想してるのって、結構きもいわ。いや、俺が言うのも本当になんだけどさ。

 

んでも、やっぱり女の子同士ってなんかいいよね、なんだよな。

 

男の人は男の子どうしで、女の人は女同士で恋愛すべきだと思うの、とどこかのレズホモ女子中学生が言ってたが、僕はホモォはダメなんだよな。百合は萌えるが、腐は腐ってるわ。このあたりの境界線は人それぞれなのだろう。

 

俺はやっぱり、ハルヒはボーイミーツガールではなく、ガールミールガールの方が萌え度が上がるんだよな。

キョン子ハルヒが最終的にキスをして、友達以上の何か特別な関係に至るっていうのが、妄想がはかどって良いんすけどね。俺って変なのかね。

 

そしてもっと言うと、俺はキョンになりたいんじゃなくて、キョン子になりたかったんだよな。漫画タイムきららの美少女だけの日常世界に、俺は男としてじゃなくて、美少女になって、美少女たちとキャッキャウフフと幸福なきららな生活を送りたかったんだ。今これほど日常アニメが氾濫している理由も、俺と同じような欲望を持っている人間のニーズを満たしているからだと思うんだよな。

 

キョン子になって、ハルヒと友達になって、一緒に宇宙人や未来人や超能力者や異世界人を探しに行きたいだけの人生だった。

 

だから俺のアイコンはキョン子で、キョン子は俺の中の心象風景なんだ。

 

けど、もう大人になってしまうわけだから、こういうアニメアイコンからも卒業するべきなんだろうな、とも思う。それでも、まだ少しだけ夢を見させてくれ。ここは寝心地がとてもいいんだ。

日記

今日は昼寝とゆっくり実況見まくって、死んでた。いやデッドバイデイライトっていう殺人鬼とサバイバーの鬼ごっこ非対称対戦ゲームが面白くてさ。ホラー映画好きにはたまらないゲームで、なんか実況向きだよなーと思いながら見てた。

あと、岡田としのをニコ生面白かった。

SFは思考力で、萌えキャラが抽象力のくだりは面白かった。第二次世界大戦を全部艦これみたいに萌えキャラ化してやれば、面白いよっていうのはうなずけた。

萌えキャラについては、僕の中の研究テーマなので、これからの思索を深めていきたい。

あと史上最強の哲学入門も紹介されてた。

哲学者をキャラ化させると、途端に頭に入りやすくなるから、キャラ化大事だよね、っていう話だった。俺も2冊とも読んだ。つーかあの本で哲学に興味持ったからな。今最も人気の哲学入門じゃなかろうか。面白いっすよ。

 

史上最強の哲学入門 (河出文庫)

史上最強の哲学入門 (河出文庫)

 

 

史上最強の哲学入門 東洋の哲人たち (河出文庫 や 33-2)
 

 

明日から頑張るじゃなくて、今から頑張る。

深夜のテンションで頑張る。

今日もいちにち頑張るぞい。

いや、今日もうあと1時間しかないんだけどさ。

ま、でも頑張るぞい。

ハルヒが教科書になるだとおおおおおおオオおおおおおおおお!!!

みんな見たかよ。ハルヒが英語の教科書になるんだとよ、マジかよ。

高校の英語教科書にこの4月から『涼宮ハルヒの憂鬱』が採用されることに | ガジェット通信

 

正直言って超うれしい。

 

俺のハルヒが、俺のハルヒが、教室の片隅で読んでいた時に「お前w何wwよんでんのwww?」嘲笑されながら読んでたハルヒが、学校中のみんなが読むことになるんだぞ。お前たちが馬鹿にしていたハルヒを憎らしいお前たちが教科書として読むんだぞ。俺の大好きだったハルヒをだ。俺の大大好きなハルヒをだ。

 

これが嬉しくないわけがないだろう。

やったぜ。俺の勝利だ。

 

いやいや、全然俺の勝利でもなんでもないんだけどさ、ハルヒの偉大さがようやっと愚民どもに理解できたって話で、勝利したのはハルヒなんだけどさ。

 

でもうれしいっすよ。

 

当時はもうオタクに市民権があったとはいえ、まだ教室でラノベ読んでたら少し浮いてたもん。少なくとも俺は浮いていた(いやラノベ読まなくても浮いてたのかもしれないが)。

これってNHKで放映されて、アングラな美少女アニメがようやく市民権を得た証拠だと思うんだけど、それにしたって教科書とは。ここまでサブカルが公的に認められるって、もしかして初めてでは?

ラノベを教科書にしてくれれば、現代文読みやすいのになーと妄想していたけど、その妄想が、英語とはいえ実現するとは夢にも思っていなかった。

 

ただハルヒって一応英語の参考書として市販はされてるんだよな。教科書にしやすいとはいえばしやすい。

『涼宮ハルヒの憂鬱』で英単語が面白いほど身につく本[上巻]

『涼宮ハルヒの憂鬱』で英単語が面白いほど身につく本[上巻]

 

 これ受験時代に少し欲しいかなっと思ったけど、俺は結局買わなかったな。だって同じ英語読むなら普通に受験に出てくる英文読んだ方がいいですって。そっちの方が効率がいい。受験英文と受験単語と乖離していたらあまりよろしくないでしょう。それに英語の原文って楽しみたいって場合に、英語版で読むべきでさ、ハリーポッターの場合はそれでいいとしても、ハルヒ谷川流先生のありがたい文章を楽しむべきでさ、個人的にはさっさと原作読めや、ていう感想なんだけどさ。

 

ただ、慣れ親しんだ物語の方が頭に入りやすいいっていうメリットはあるから、ハルヒが教科書になるのは結構いいんじゃないかな。興味ない英文読んでも、辛いだけだろ。

 

こうやってみると、川上量生氏が言っていた現代の教養とはワンピースだっていうのにもいよいよ頷ける。もうアニメは教養で、共通言語で、それが教科書になってもおかしくないってことなんだろうと思う。かつては純文学が時代を表していたのかもしれないけど、今最も時代を反映させているのは、漫画ならワンピースや進撃の巨人で、アニメならエヴァやまどかで、もしかしたらそこにけものフレンズも入れていいのかもしれない。

 

さすがにワンピースを教科書にするのは、あまりに娯楽がすぎるから、ハルヒなら教育目的としても安心できるという上の考えなのかもしれない。児童書としてもハルヒは再販されているのだ。

涼宮ハルヒの憂鬱 (角川つばさ文庫)
 

 つーか、この表紙のBANGって銃撃つマネしているハルヒ可愛すぎでは。ハルヒらしさを表してて、グッド。

 

原作ハルヒの文章は実際本当にいいものだ。難しすぎず、簡単すぎず、それでいて巧妙なレトリックや言い回しがあって、中高生が読んでいい具合の刺激を受けられるような、絶妙な文章なのだ。

僕はハルヒを読んで、活字の魅力を知った。原作を読んでいなければ、今こうやってブログを書いていることもなかっただろう。断言できる。

 

それだけハルヒは僕にとって思い出深い作品なのだ。そんな作品が今の中高生にも読んでもらえるなんて、こんなに嬉しいことはない。

 

NHKの放映を見たり、英語の教科書を読んで、ハルヒに興味を持った人がぜひとも原作を読んでもらいたい。そして最後まで読みきったら、ともに新作くれくれ症候群にかかろう。

 

驚愕が発売されてもう6年近く経つ。SOS団のみんな、もう俺こんなに大きくなっちまったよ。初めて読んだ時年上だった団員が、もう年下なんだよ。ハルヒたちはいまだに永遠の高校生活を送っているんだ。エンドレスハイスクールなんだよ。

僕たちだけが年を取っていく。そして同い年の高校生たちもそのうちにキョンハルヒや朝比奈さんや長門や小泉を追い抜いて行ってしまう。

 

俺たちだけが大人になっていってしまう。

 

それでも俺は、いつまでも待っている、いつまでもSOS団の活躍をずっと待ち続けている。

 

なぜなら俺は、SOS団のファンの一人だからだ。

 

 

日記

自己嫌悪する。テキストを書いていると、後々自己嫌悪することがよくある。自分のテキストがどうにも、恥を誘発させる装置になっている気がしてならない。

ただこれはテキストというよりは、自分が何かをアウトプットして、それが褒められることよりも、否定されたことの方が多いからこういうことになってしまうのかもしれない。子供の頃から、勉強やら運動など世間に認められることで褒められてきた人間はスペックの高い人間になりやすい。僕はそのどちらもなく、ただゲームと漫画とアニメと小説にはまるだけの毎日で、それらをやっていて褒められたことなど一度もなかった。ただ現実があまりに厳しいので、その逃避のためにやっていたにすぎなかった。

ただそう言ったインプットから生まれるものもあるだろうから、僕の趣味の話なんぞをすればいくらか褒めてくれる人もいるかもしれない。その初めての褒めを受け取って、それを原動力にしていけば僕もスペックの高い人間になるかもしれない。

しかし若い時分ももう終わりに近づいている。褒めて伸びる機会もこれで最後かもしれない。今のうちに褒められるようなことをしておかないと、社会に出てからキツイことになるだろう。

それはエンジンとガソリンなしで長い道のりを走ることのと同じようなことだからだ。だから今必要なのは成功体験だ。成功して、それを誰かに賞賛されるという、成功者が幼児期に起きたであろうプロセスをこの歳にして、自らのコントロール下で起こすのだ。

しかしそのためには、成功と他者が必要だ。成功はエンジン。他者はガソリンだ。どちらも僕にはないもので、今までないままでここまで来てしまった。エンジンもガソリンもないままで、どうやってこの長い人生という道のりを進んでいけばいいのだろうか。

いや、だろうかなどと疑問を呈している場合でもない。今すぐ成功して、いますぐ褒めてもらうのだ。そのために会社にインターンに行くというのはアリだろう。そしてインターンで認められるためには、プログラミングの技術が必要だ。だからいまは一人孤独部屋に引きこもってコードを書いているのがいい。良いコードを書けるようになれば、良い成果物を出せば、みんなが褒めてくれる。その褒めを原動力にして、さらに良いものを作るようになれば、僕はようやく社会に認められる。

この長い人生という道のりを、自らの足で歩むことができる。

頑張ろう。

日記

なんか適当に書いてくか。ベッドに横になって書いてる。ま、多分読み手の君たちもベッドに大抵横になってアイフォンでみているだろうから、どっちもどっちだろう。きちっとしてパソコンの画面で見ている人がいたら先にすまんと言っておきたい。

確か化物語に出てくる忍野メメが、ケータイ苦手って言ってた理由に、電話している相手が、会話しているのにベッドで横になって、不真面目な姿勢を取っていそうで嫌だ、みたいなこと言ってた。意外に繊細なんだなと、ありゃりゃぎさん(失礼、噛みました)は評してたけど、僕も大して気にしない派だな。

そこらへんはデジタルネイチィブとの違うと言えるだろう。それと西尾維新はネットをやらないって言ってたし、まあ作家なら資料集めくらいにしか使わないくらいがいいだろう。作家なんてのは物語を作るためだけの装置なわけだから、SNSをやってファンとの交流!!なんてことをやっている連中は職人とは言えない。

インデックスの作者もツイッターやっとらんし、閾値を超えた作家はただ作品を作ることに集中している。ツイッターに夢中になっている作家がいれば、売れていないから、あるいは要領がいいかのどっちかだろう。僕は作家は作品だけに集中して、より良いものを作って欲しい派の人間かな。ま、ツイッターの発言に注視してしまう僕もいるのだけれど。

 

ところで、最近はプログラミングの勉強をやっている。やっているのだけれど、はかどっているかというと、そうでもない。教室の通ったけど途中で鬱が発生して、あまりやらなかった。そして今はネットにあるコンテンツを使って勉強している。そろそろ就職のことを考えないといけないのだが、その仕事で使える実力がついているとは言えないので、少し困っているところだ。カリスマプログラマーになっていると、アフォメーションしつつやっているが、どうなることか。大事なのはなっているという状態に臨場感を抱くこと。これは忘れてはならぬ。なっているなっている。

 

 

勉強するべき時間に、ブログを書いているのは単に気晴らしだ。人気ブロガーになれば結構な金と地位を手に入れられるのだろうけど(つっても上限が数千万規模だから、動画勢の数億規模に比べらたら市場の桁が違っていて、あまり夢がないなあとも思うが)、僕はあまり他人の承認を必要としない人間で、さあ才能に目覚めようでも内省が一番に出て、さもありなんと思った次第だ。

 

さあ、才能(じぶん)に目覚めよう 新版 ストレングス・ファインダー2.0

さあ、才能(じぶん)に目覚めよう 新版 ストレングス・ファインダー2.0

 

 

しかし、話は変わるがクラシック音楽は非常にいいものだ。今書いている最中にも音楽が流れていて、心が癒されている。前は鬱で死にたいと思っていたこともあったが、クラシック音楽を聴き始めてあまり思うことも少なくなった。ここ1年くらいでハマったにわかだし、作曲家も曲名もろくに覚えちゃいないけど、だからこそ純粋に音楽を楽しめるとも言えるだろう。

特に好きでも嫌いでもない作曲家などに興味はなくて、ただ音楽を作るための装置だとしか思っていないからこそ、なんのバイアスもなく音楽を楽しむことができる。

モーツァルトやベートーベンなんかが、ツイッターをやっていたら、作曲家が好きかどうかで、曲の良し悪しを決めてしまうことになる。それは作り手にとっても受け手にとっても不幸なことだろう。

例えばこんなのとかさ。

モーツァルト「猫キャワワ」

ベートーベン「さすがに草生えるwww」

地獄だ。そんなの知らねえっつの。

何度も言うけど、クリエーターは作ってなんぼの人種だ。僕は人の作り出した創作物は愛しているが、人には興味がない。人なんていう不純物だらけのものをなぜ好きになるのか。ろ過して美味しくなった創作物の方を僕は食べたい。だからクリエーターが創作物に介入して、不純物を混入させるなんてことはあってはならない。

だから本のサイン会っていうは本当にわからない。作家にあって何が楽しいのだろうか。本は本で楽しむべきだし、作家に会ったりサインをもらたって何も楽しくないし、本が不味くなるだけだと思うのだがね。

そういう意味でも、クラシック音楽は、不純物なく食べられて、毎日が楽しいよ、っていう話だ。

 

 

以上。さて勉強すっか。

人を馬鹿呼ばわりするのではなく、余裕のない人だと呼ぼう

貧すれば鈍する、という言葉通り、人は貧乏になれば途端に馬鹿になる。

 

この場合、僕の中にある馬鹿の定義とは、自分の人生を幸福にするために最適な行動ができないことを指す。本やネットや人と接するのは、幸福になるための情報を入手するためのだと言っていい。例えば、価格ドットコムで比較すればより安いものが買えるし、勉強本を読めば、勉強方法がわかって、良い大学に入り、ホワイト企業に入れて、安定した収入のおかげで、子供を産んでその教育費を払えるということもあるだろう。だから幸福になるための行動を取るためには、幸福情報強者になることが手っ取り早い。

 

だが、その幸福情報を得るための行動をするための情報を得ることが、貧困の家庭だとできないことが多々ある。

 

スタートすら切れない人間がかなりいる。こと勉強においては始めるための2割が労力が、全体の8割の成果を支えていると言っていいからだ。

 

そして、現状において、人は生まれながらに平等ではなく、家庭や環境によって、裕福か貧乏か決まる。

 

つまり馬鹿な人間には二通りあって、裕福でありながら馬鹿なのか、それとも貧困によって貧乏になってしまったのかということだ。それらはちゃんと分けられるべきだし、後者にはちゃんとした教育や職業訓練の場を与えられるべきだろう。

 

だから僕は誰もが皆無料で最高の教育を受けられる状態にするべきで、その状態になって初めて、平等な競争は担保され、その上で人々は切磋琢磨し、この世界に付加価値をもたらすものになると信じている。

 

しかし、こう言った当たり前の事実を無視しているのか、知っていながら意地悪で言っているのか、多分マウントをとって自分の利己的な欲求を満たすためなのだろうが、潤沢な教育費の上で利口になった人間が、そうでない人間を馬鹿呼ばわりするということがよくある。

 

そういう人たちに言いたいのは、あなた方は一体何のおかげで頭が良くなれたのか、そのことをお考えですか?ということだ。この世界が不平等であることは、歴然立つ事実だ。生まれた時からもう無理ゲーっていうこともよくある。

 

綺麗事で、説教くさいかもしれないが、知性は人のマウントをとって自尊心を満たすための道具ではない。賢者はその知性を他者のために使う人間であり、貢献こそが人間の原初的な欲望であり、それを満たすことがその人の真の幸福へとつながる。

 

他者を見下す人間に救いがあるとは思えない。

 

まあ、僕も結構やってしまうから人のことを言えないのだが、少なくとも環境が恵まれて利口になった人間が、環境に恵まれず馬鹿になってしまった人間を、本当の馬鹿と一緒くたにして、馬鹿呼ばわりするのはいかがなものかと思う。

 

だってそれってただの強者の言葉じゃないか。文化的な資産を持つ人間な、ない人間を踏みつけているようにしか僕には思えない。仮にそれができる資格を持つ人間がいるとしたら、同じ文化的な資産がない状態から這い上がったマッチョな人間のみだろう。

 

努力をしたものが報われると説得力を持って発言できる人間がいるとしたら、それは人類で最も不幸な人間に限られる。そんな人間にふさわしい人間は「Gattaca」の主人公ヴィンセントだけだろう。だから僕は「Gattaca」が好きなのだ。

 

 

遺伝子によって、人間の知能の半分は決まっているものとされている。だけど、遺伝子のせいにして、自分がやりたいことを諦め、自分の人生を放棄してしまうことほど不幸なことはない。

 

環境させあれば、最高の教育と、最高の家庭と、最高の友達があれば、最高の人間が出来上がるはずだという希望がなければ、人は努力することができない。

 

未来の日本において、そんな最高の環境が平等に恵まれているかもしれないが、今はまだ生まれながらの環境で人生が左右される状態にある。

 

ならば馬鹿な人を見かけたならば、その人を馬鹿にするのではなく、推定無罪の形で、余裕のない人間だと呼ぶべきだと僕は思う。

 

少なくとも、少しでも恵まれていると自覚のある人間ならばそうするべきだろう。

それこそが健全な社会である、と僕は思う。

 

貧困クライシス 国民総「最底辺」社会

貧困クライシス 国民総「最底辺」社会