自分の頭で考えることの是非

 

自分のアタマで考えよう

 

自分のアタマで考えようにおいて、ちきりん氏は知識と思考についてこう述べている。

知識とは「過去の事実の積み重ね」であり、思考とは、「未来に通用する論理の到達点」です。ちきりんは知識の重要性を否定しているわけではありません。知識と思考を異なるものとして認識しましょうと言っているのです。

冒頭に、わざわざ「自分の頭で」考えるという言い方をするのはなぜだろう、と書きました。一部の「知識」は「過去において、他の人がその人の頭で考えた結果」です。それを私たちは書籍や講義、報道などを通して学んでおり、自分の頭の中に知識として保存しています。何かを考えろ、といわれたときにそれを頭の中から取り出してくるのは、「他人の思考を頭の中から取り出してくる行為」に他なりません。

他人の思考は正しい場合もあれば間違っている場合もあります。時代や背景となる環境条件が異なる場合も多いでしょう。さらに危険なのは、それが「大きな権威をもつ、メディアや専門家の思考」である場合です。

その分野の大家と呼ばれる人が書き、歴史の判定を受けて長く生き残っている名著には、多くの場合「答え」が書いてあります。そんなすばらしい「答え」を目にしても、それに引きずられずに「自分で考える」ことができなければ、私たちは未知の世界に向けて新たな思考を拓いていくことができません。

読んでいてもっとも興味深い一節だと思った。自分自身知識に寄っているの人間だという自覚があって、そのせいで何かの問題に対して、誰かは考えこうこの本の考えではこう、と引用することが多々ある。上で書いているように引用しているのがまさにそれ。「他人の思考を頭の中から取り出してくる行為」そのもので、自分のアタマで考えていない。ちきりん氏が述べている通り、知識の重要性を否定しているわけではないが、未知の世界に向けて新たな思考を拓いていくためには、もっと思考を重視しなければならないなあとは反省する。

 

こう書いていて思うのは「自分の頭で考える」ことの是非って心底難しい、ってことである。下の記事で書かれているような「自分のアタマで考える」ことの弊害もあることも事実なのだ。

anond.hatelabo.jp

最初は発想が面白いと思ったり分析の切り口が鋭いと思ったりしたんだけど、ある時期から、ちきりん自身が主張する「自分のアタマで考える」が悪い方に出ているなという印象を持つようになった。
たまに自分(俺)がそこそこ知っている話題についてちきりんが論じているのをみると、あまりにも調べ物をサボりすぎというか、その道の専門家たちが何を言っているのかを考慮せずに、自分のアタマだけで考えた図とかが載ってて杜撰さを感じるんだよね。(中略)ちきりんは要するに、どんな話題でも短時間でそれっぽい仮説を考えることができるってタイプで、会社とか飲み屋にこういう人がいるとアタマの体操にはなっていいと思う。しかし今のネットでは、ちょっとググれば専門家の見解をふつうに読むことができるから、単なるアタマの体操に過ぎないちきりんの日記に「情報」としての価値はないんだよね。そもそも間違いも多いし。

しかもあるとき気付いたんだけど、ちきりん風の「IQが高いけど専門性(知識)がない人」の言うことって、似てることが多かったりワンパターンだったりして、意外性がじつは少ない。
政治や文化に関する話題ならとにかくリベラルっぽいことを言っておき、経済についてはとにかく市場を礼賛するネオリベっぽいことを言っておき、ビジネスやキャリアの話題ならとにかくグローバル化を礼賛して日本の大企業を叩いときゃいいや的な。
もっとざっくりまとめてしまうと、なんか新しいものにとりあえず着目して、それと対比できる古いものを持ちだして比較し、古い方を叩いて「これまでの常識は通用しなくなる!」みたいなことを述べて終了というワンパターンな芸を繰り返してるだけなんだよね。しかもちきりん風の人たちって、新しいものを称えるのがアイデンティティになってる割に、発想のパターンはすごく古かったりして(たとえばネオリベ的なところ)、その意味でも「あぁ・・・またそれですか?」って感じがする。(中略)ちきりんのような「IQが高いけど知識がない人」は、身軽に見えて実のところ発想の幅が狭い。東みたいな頭でっかちな人文系オタク知識人のほうがアイディアが豊富で、鋭くて、ちきりんはついてこれなかったんだ。

なんというか、多様性を強調してる割に「ちきりんの主張」はワンパターンだし、「ちきりん風の人たちが言うこと」も決まりきっていて、じつは全然多様じゃない
「自分のアタマで考える」のは結構なことだけど、自分のアタマで考えただけで過剰な自信を持つタイプの人が言うことってだいたい予想できちゃうんだよなぁ。

 

 しかし、弊害があることは、自然なことだしむしろいいことであるとさえ僕は思うのだ。その理由は本書の自分のアタマで考えようのあとがきで見つけることができる。

 

ビジネスの分野でも、人間の生き方や社会の有りように関する分野でも、「古典」とか「歴史的な名著」といわれる本の中には「人生の答え」「世の中の事象に関する回答」が書いてあります。それらを書いた人は、もともとの能力も凡人とはかけ離れたレベルの人であり、加えて彼らは多くの場合、一生をかけてその分野を突き詰めて研究してきた第一人者です。

言うまでもなく、それらを超えたことをちきりんが考えつくのは不可能です。そしてそう思った瞬間に自分で考えることをやめてしまう自分に気がついた私は、こういった名著を「このことについては、私はもう十分に考えた!」と思えるまでは読まないことにしました。

「答えを先に読む」のをやめたのです。「天才さんが考えだした正しい答えを、自分で考える前に読んで、知識として覚える」のをやめたのです。

私は自分のブログに「自分の頭で考えたこと」を書いています。その内容はときにとんでもなく現実離れてしているし、読んでいる人があきれるほど珍妙なアイデアも多々あります。

どの分野でも同じですが、自分の頭で考えれば考えるほど稚拙になり、間違いも多くなります。偉大な先人や専門家の智慧に素直に耳を傾け、知識としてそれらを学んだ方が「わざわざ自分の頭で考える」より圧倒的に効率がよいでしょう。

それでも、「自分の頭で考える」ことはとても楽しいことです。専門家やメディアの受け売りではなく、自分の頭で考えた意見は、荒削りだけどユニークだし、突拍子もないけれど、ときには自分でもわくわくしてしまうほどおもしろいものになります。

それを知っているからこそ、多くの方が「Chikirinの日記」を読んでくださっているし、私にとってもブログの更新(自分の考えたことのお披露目)が義務でも仕事でもなく、究極の趣味であり、日々の楽しみとなっているのです。

ちきりんは「古典や名著を読むな」と言っているわけではありません。本来は、「書物や授業を通して先人のすばらしき思考の功績を学び、さらにその上に自分の頭で考える」のが理想です。(中略)「知識」と「思考」をはっきり分け、「知識」を「思考」にどう活用するか、ということを学ばないと、「知識を蓄えるだけ、覚えるだけ」になってしまうからです。そうなったら「考える力」はどんどん減退してしまいます。

自分の頭で考えていると、最初は泣きたくなるくらい幼稚な考えしか浮かんできません。ついつい答えを見たくなってしまいます。考えの深い人や博識な人が近くにいれば、すぐにその人の意見を聞きたくなってしまいます。でも、そこをグッとこらえて自分で考えるんです。

この「自分の頭で考える」という、非効率ではあるけれどもすばらしく楽しい思考の世界を多くの方に楽しんでいただきたいと思っているし、そしてそのために、この本が少しでも役に立てばと願っています。

私自身、これからも「正しい答え」ではないかもしれませんが、「ちきりんが考えた、自分なりの意見」を発信し続けていきたいと思っています。

 つまり増田によってかかれた記事の、『発想が面白いと思ったり分析の切り口が鋭いと思ったりしたんだけど』で十分なのである。発想が面白く分析の切り口が鋭い、と思わせるだけでChikirinの日記の役目は終えている。専門家やメディアの受け売りではなく、荒削りだけどユニークな自分の頭で考えた意見とそれっぽい仮説を発信するのがChikirinの日記の目的である。

 

Chikirinの日記は頭の体操をする場なのであり、それ以上の読み物を求める場ではないのである。「正しい答えではないないかもしれない、「ちきりんが考えた、自分なりの意見」を発信する場なのである。

 

よって増田が指摘する杜撰だったり、情報としての価値がなかったり、間違いが多かったり、ワンパターンだったり、発想の幅が狭くて、古くて、多様ではなく、予想ができてしまうということが、仮に事実だったとしても何の問題もない。なぜなら、ちきりん自身が自分の頭で考えれば考えるほど稚拙になり、間違いがあることが多くなることを認めているからである。

正確さだったり、情報としての価値だったり、発想の幅を求めるのであれば、「古典」や「名著」を読むべきであり、それをChikirinの日記に求めるのは、もしかしたら筋が違うのではないか。

「正しい答え」ではないかもしれない「自分で考えた、自分なりの意見」を書くのがブログという場であり、その考えたことと意見は稚拙で荒削りかもしれないが、ユニークであると思うのだ。

そしてブログというものが、根本的にそういうものだという前提がなくなっているのではないだろうか。少なくとも僕自身は稚拙で荒削りだけどユニークな考えや意見を読みたくてブログを読んでいる。

勘違いしてもらいたくないのだが、僕はこの増田の言うちきりん批判は大いに同意するところなのだ。だからどちらかというとちきりんアンチ側の人間だ。たぶんあの批判の大部分は正しいのだと思う。

だがブログが読み手にとっての頭の体操だけでなく、書き手にとっても頭の体操をする場だと考えると少し見え方が変わってくる。ブログを書くことはスポーツで言うところの筋トレに相当する。筋トレをやっている人間に今すぐ試合をやれ、と批判しているのと同様のことをこの増田はやっているのでないだろうか。

 

「古典」や「名著」に頼らずに、自分自身にあえて負荷をかけることによって、考える力をつける。そうやって培った考える力は、未知の世界に向けて新たな思考を拓いていく。

 

それこそが自分のアタマで考えようの本質的な教えだと僕は自分の頭で考えた。

 

 

(知識ばかりで自分の頭で考えない僕に)そんじゃーね