力ある者の言葉を信じるためには

嘘つきは泥棒の始まりだというが、この言葉はこう言い換えても差支えないのではないか。

嘘は泥棒である、と。

泥棒とは人様の財産を奪うことを指す。そう、嘘には人の財産を奪うだけの力があるのだ。自分の利益のために他者を陥れるウソがこの世界にはあまりに溢れている。

本書学者のウソ [ソフトバンク新書]にはそんな憂鬱を通り越して、絶望すら覚える嘘の数々がまとめられている。題名は学者のウソとされているが、僕はこれを力ある者のウソと変更していいと思っている。なぜなら本書に登場する嘘つきさんは社会的強者であるからだ。

大いなる力には多いなる責任が伴うでも、ノブレスオブリージュでも言い方はなんでもいいが、力を持つものに責任やら義務やら良心やら善意などが求められる。それはそうだ。誰もサイコパスに核弾頭のミサイルを託したいとは思わないだろう。月並みな言い方だが、大きな力は使う者によって薬にも毒にもなるといったところか。

これがただの毒ならまだいい。しかし、力ある者の毒は目に見えないのだから、本当に厄介だ。人類最大の敵はウィルスとされているがその理由が何かは言うまでもないだろう。

皆が想像する分かりやすい力―格闘技でもナイフでも拳銃でもなんでもいいが、それらを行使する人間というのは相対的に怖くない。シリアルキラーが殺すのはせいぜい数十人で捕まえればそれで解決する。しかし強い嘘つきさんは何千何万という人々に悪影響を与える。しかもその嘘を見抜くことが難しく見抜いたところで彼ら強い嘘つきさんに対抗することは困難に近い。それこそが強者が強者たるゆえんだからだ。

ネット民が大嫌いなマスゴミがこの本では例に出されているが、テレビの放映権が銃よりも遥かに恐ろしい武器であることは、容易に想像することができる。情弱はマスゴミに騙されて搾取されるってのは、ネットでは半ば常識なのではなかろうか。だからといってネットには真実があるっていうのも嘘ではあることは、ここまでブログを読んでくれた人ならお分かりだと信じたい。

ところでこういったウソを暴くウソ本っていうのは検索していただければ分かるが結構ある。ネットの到来によって、いままで信じられていたことが、白日の下にさらされたってことだろう。ネット民には朗報であるし、強者が作った強者にとって都合のいいルールというのが見破られるようになったのは、我々弱者にとっても良い傾向だろう。

疑うのは結構。騙されないために必要なことだ。しかし、これらの本にはウソだけが記されて信じるための方法がない。信じることによって騙され、信じないことによって救われないという事実が突きつけられるのみ。我々弱者は一体どうすればいいのか途方に暮れるしかない。弱者はただ搾取されるのみなのだろうか?

われわれは、何かを信じなければ生きていけない。だから、疑うことを勧めるその次に、何を信じるか、あるいは信じられる社会を作るにはどうすればよいのかという点について理性的な指針を与えることが重要になる。そこを誤ると、既存の価値をすべて疑うように仕向け、その上で新たな教義を刷り込む新興宗教と同じ過ちを犯すことになる。

 某プロブロガーなどを筆頭に権威を敵として祭りあげて、自分の言っていることが正しいと信じさせ、信者から搾取するといった手法がまかり通っているところから分かるように、弱者に優しいフリをしてくる強い嘘つきさんは枚挙がない。つくづく絶望的なこの状況にあって、我々弱者に必要なことは疑う方法ではなく信じる方法だ。欠点をあげつらうことはまだ簡単だ。重要なのはそこから建設的な提案をすることにある。僕が本書を読んでいて感動すら覚えたのはこの建設的な提案を著者が実践していた点だった。

 

それが本書の主題である「言論責任保証」だ。

genseki.a.la9.jp

 

その仕組みについてはぜひともリンク先から各自ご確認いただきたい。個人的に先見力検定という試みが非常に興味深かった。

docs.google.com

こういった試験をクリアできる能力がこれからの時代に求められているのだと、僕は思う。

 

最後に僕の好きな言葉を一つ挙げさせてもらう。

 

道徳を忘れた経済は罪悪である。経済を忘れた道徳は寝言である。

 

道徳は心。経済は力と言い換えると、この言葉の真意が分かる。力なき善意には意味がない。だが無力なだけなら許せる。許せないのは良心を失った力だ。私利私欲のために、権力や頭脳を振りかざす連中を許してはならない。

 

力ある者には良心を養ってもらいたい。

 

学者のウソ [ソフトバンク新書]

学者のウソ [ソフトバンク新書]