風呂によって、僕は自由を奪われる

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今日は、実家に帰ってきている。そこで思うのは、風呂は毎日入るものなのだろうか?という疑問だ。

一人暮らししている時は、三日に一回入るぐらいの頻度だったのだが、こちらに来たら毎日入れと急かされる。普通にめんどい。風呂洗うのも風呂入るのも時間の無駄なような気がするのだが、実家にいた時は気にしていなかったけど、一人暮らししてそのようなことを思うようになった。

もしかして、こんなに毎日風呂に入るのは、洗濯機が出てきた後の習慣なのではないか、という考えが浮かぶ。昔の人はそんなに頻繁に風呂に入っていなかったのではないだろうか。洗濯機がなければ、服を洗うのも大変だろうから、できるだけ服の量を減らし、一つの服を長くきて、体がかゆくなったら、服と一緒に体も洗うという感じだったのではないだろうか。昔の人はそんなに風呂に入っていなかったのではないだろうか。

僕の場合、その体がかゆくなるのが、だいたい三日くらいなので、その頻度に合わせて、洗濯していたのだけれど、洗濯機本体の値段といい、その水道代といい無駄なので、洗剤を入れた水入りのバケツに入れて、軽く手洗いするということをやっていた。一人暮らしならこんなんでいいだろう。

僕は体が痒くなるから風呂に入る。しかし僕の家族は、というか大多数の人が1日入らないと体が臭くなるから風呂に入るという。これに対してさすがにみんなきれい好き過ぎでは?と僕なんぞは疑問を挟みたくなる。僕の場合、人と会うという行為が少ないので、人に迷惑をかけるということもないのだが、みんなは人と会うからエチケットとして風呂に入るということなのだろう。

しかしそれでも、みんな気にしすぎでは?と、問いたい。風呂に入ると気持ちいから入りたい、という人はいいかもしれないが、風呂を洗うのも風呂に入るのも面倒くさいという人も多いのではないだろうか。そういった人に風呂に入って、体臭を消せというエチケットを強制するのはどうなのだろう。地味に幸福度が低くなる要因になっているのではないだろうか。

風呂を洗うのと、体を洗うのと、最低30分は要するだろう。三日に一度にすれば1時間は得することになる。人生80年の総計でいけば、かなりの時間になる。その時間で、勉強なり趣味なりすればもっと人生が豊かになるのではないだろうか(風呂に入るのが趣味という人は、そのまま風呂に入っていればいいと思うが)。

僕の場合人がどれだけ臭かろうと気にしない(むしろ臭いによって、その人を特徴付けることができるので、顔が覚えられない僕なんかには便利なのだが、そう言った使い方は稀だろう)。みんなが人の体臭に寛容になれば、風呂に入りたくない人の幸福度が上がるのではないだろうか(というか、体臭に限らず何事も寛容になれば幸福度は上がるだろうが)。しかし実際問題はそうではないだろう。

社会人になれば、社会人らしいマナーを守らなければいけない。みんながみんな、愛想笑いを振る舞いて、ぴちっとしたスーツを着て、化粧をして、私はちゃんとした人間ですよ、と努力している。その私はちゃんとした人間ですよアピールのためのリソースを、もっと生産的なことに使えばいいのに、と外見をとことん気にしない僕なんぞは思うのだけれど、しかし働くための雰囲気作りをすることでより生産性が上がるという見方もできる。人の体臭が大嫌いという人もいるだろうし。その人に会社を辞められたりしたら、ことだ。

 

僕は気にしないけど、別の誰かが気にする。その誰かのために僕は気を使う。その時、僕は自由を奪われる。

 

人に迷惑をかけない範囲で、我々は自由を有するっていうのが大前提だけれど、僕は自分の自由をできるだけ大きくしたいので、人に対してもできるだけ自由を与えるようにしている。僕は体臭を気にしないことで、その人が臭い状態にいる自由を与えている。

しかし、社会の一般認識としては、体臭を放つことは迷惑行為に当たるのだろう。僕が言っているのは、俺は殺されてもいいから、殺されてもかまわないというのと同じことだ。それはそれは間違いなく間違っている。

だからみんな風呂に入って、人に迷惑をかけないようにする。社会で生きる以上、風呂に入ることは逃れられない宿命なのだろう。

 

それによって、その人の人生の時間が失われるとしても……。

 

やれやれ、なんだかね。

 

自由論 (光文社古典新訳文庫)

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