人を馬鹿呼ばわりするのではなく、余裕のない人だと呼ぼう

貧すれば鈍する、という言葉通り、人は貧乏になれば途端に馬鹿になる。

 

この場合、僕の中にある馬鹿の定義とは、自分の人生を幸福にするために最適な行動ができないことを指す。本やネットや人と接するのは、幸福になるための情報を入手するためのだと言っていい。例えば、価格ドットコムで比較すればより安いものが買えるし、勉強本を読めば、勉強方法がわかって、良い大学に入り、ホワイト企業に入れて、安定した収入のおかげで、子供を産んでその教育費を払えるということもあるだろう。だから幸福になるための行動を取るためには、幸福情報強者になることが手っ取り早い。

 

だが、その幸福情報を得るための行動をするための情報を得ることが、貧困の家庭だとできないことが多々ある。

 

スタートすら切れない人間がかなりいる。こと勉強においては始めるための2割が労力が、全体の8割の成果を支えていると言っていいからだ。

 

そして、現状において、人は生まれながらに平等ではなく、家庭や環境によって、裕福か貧乏か決まる。

 

つまり馬鹿な人間には二通りあって、裕福でありながら馬鹿なのか、それとも貧困によって貧乏になってしまったのかということだ。それらはちゃんと分けられるべきだし、後者にはちゃんとした教育や職業訓練の場を与えられるべきだろう。

 

だから僕は誰もが皆無料で最高の教育を受けられる状態にするべきで、その状態になって初めて、平等な競争は担保され、その上で人々は切磋琢磨し、この世界に付加価値をもたらすものになると信じている。

 

しかし、こう言った当たり前の事実を無視しているのか、知っていながら意地悪で言っているのか、多分マウントをとって自分の利己的な欲求を満たすためなのだろうが、潤沢な教育費の上で利口になった人間が、そうでない人間を馬鹿呼ばわりするということがよくある。

 

そういう人たちに言いたいのは、あなた方は一体何のおかげで頭が良くなれたのか、そのことをお考えですか?ということだ。この世界が不平等であることは、歴然立つ事実だ。生まれた時からもう無理ゲーっていうこともよくある。

 

綺麗事で、説教くさいかもしれないが、知性は人のマウントをとって自尊心を満たすための道具ではない。賢者はその知性を他者のために使う人間であり、貢献こそが人間の原初的な欲望であり、それを満たすことがその人の真の幸福へとつながる。

 

他者を見下す人間に救いがあるとは思えない。

 

まあ、僕も結構やってしまうから人のことを言えないのだが、少なくとも環境が恵まれて利口になった人間が、環境に恵まれず馬鹿になってしまった人間を、本当の馬鹿と一緒くたにして、馬鹿呼ばわりするのはいかがなものかと思う。

 

だってそれってただの強者の言葉じゃないか。文化的な資産を持つ人間な、ない人間を踏みつけているようにしか僕には思えない。仮にそれができる資格を持つ人間がいるとしたら、同じ文化的な資産がない状態から這い上がったマッチョな人間のみだろう。

 

努力をしたものが報われると説得力を持って発言できる人間がいるとしたら、それは人類で最も不幸な人間に限られる。そんな人間にふさわしい人間は「Gattaca」の主人公ヴィンセントだけだろう。だから僕は「Gattaca」が好きなのだ。

 

 

遺伝子によって、人間の知能の半分は決まっているものとされている。だけど、遺伝子のせいにして、自分がやりたいことを諦め、自分の人生を放棄してしまうことほど不幸なことはない。

 

環境させあれば、最高の教育と、最高の家庭と、最高の友達があれば、最高の人間が出来上がるはずだという希望がなければ、人は努力することができない。

 

未来の日本において、そんな最高の環境が平等に恵まれているかもしれないが、今はまだ生まれながらの環境で人生が左右される状態にある。

 

ならば馬鹿な人を見かけたならば、その人を馬鹿にするのではなく、推定無罪の形で、余裕のない人間だと呼ぶべきだと僕は思う。

 

少なくとも、少しでも恵まれていると自覚のある人間ならばそうするべきだろう。

それこそが健全な社会である、と僕は思う。

 

貧困クライシス 国民総「最底辺」社会

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