僕が小説を読まなくなった理由

僕は十代のとき、かなり小説を読みまくっていた。10代前半はラノベを、後半はミステリー小説を、そして20代になってからは、SFを読みまくっている。

徐々に趣味嗜好が大人になっていると言っていいだろう。ただ、僕自身これまで何千冊と小説を読んできたわけなんだけど、それによって何かいいことがあったかっていうと、そうでもない気がする。ただの娯楽なんだから別にメリットなんてなくていいだろ、って言われればそれまでだけど、でも同じ娯楽をやるならもっと自分にメリットが欲しいっていうのも事実だ。このように思うようになったのは、二十歳くらいからノンフィクションをよく読むようになってからだ。

 

フィクションはいいけど、ノンフィクションはもっといい

例えば、フィクションを100リソース振るのと、ノンフィクションに100リソース振ると、楽しむということを抜けば、圧倒的にノンフィクションの方がリターンが大きい。

小説は読むと楽しいといえば楽しいけど、もう10代のうちにその楽しさを十分以上に楽しんだ節があって、もうこれ以上そこにリソース降っても、これ以上の楽しさを得られない感じだ。ハルヒとか西尾維新とか、僕がはまった作品たちっていうのは、時代を象徴する作品で、10代のうちはそれにどはまりしていてもよかったのかもしれないけど、世界ってのは別にフィクションだけでできているわけじゃなくて、むしろ僕の生きているこの現実は確かにフィクションみたいにご都合主義でできているわけじゃなくて、生きていて辛いこともあるけど、でも楽しいことだってたくさんあるわけで、そこに目を背けて、フィクションに逃げるっていうのは、世界の芳醇さを否定しているよな、っていう考えに最近はなっている。

あと前にSF作家の野尻氏が小説ばっか読んでいると馬鹿になるぞ、と言った発言をしていて、一人の小説好きとしてはいやそうじゃないよ小説は素晴らしいものだよ、擁護するべき立場にあるわけだけど、小説好きだからこそ、やっぱり小説読むと馬鹿になるよなっていう実感があって、しぶしぶ肯定している。

野尻抱介「中学になったらラノベなんか読むな、大人の本を読め。大人の本で本物の教養やセックスや暴力や愛や人生を学べ」「中高生に迎合したラノベなど消えてなくなれ」

なんで、小説を読むと馬鹿になるかっていうとさ、やっぱりフィクションって情報を得る手段として効率が悪いわけなんですよね。そこはエンタメを主眼にしているから仕方ないとしても、もうちょっと何か得るものが欲しいと思うわけですよ、特に大人になると。若い時はフィクションばっかり読んでいてもあんまり困っているっていう実感がなかったんだけど、大人になってくると、いろいろと知識をつけてお勉強する必要が出てきたわけでさ、必要性って観点からもなんか下手な小説読むよりも、名著のノンフィクション読んで教養深めといた方がいいよねってことなのね。

あと、お勉強って若い時は嫌いだったんだけど、初めのわからないって状態を脱するまで我慢して真面目な本を読んでいるとさ、そのうちに知識欲ってやつが目覚めて、もっとノンフィクションを読みたい、もっと現実の世界を知りたい、っていう状態になったのね。

多分僕の場合は、社会調査のウソっていう本が、初めにこの現実世界に対して興味をもたせた本だったと記憶している。 

「社会調査」のウソ―リサーチ・リテラシーのすすめ (文春新書)

「社会調査」のウソ―リサーチ・リテラシーのすすめ (文春新書)

 

 この本のおかげて、新聞のような公的に信用されているようなものでも平気でウソを書くことを暴かれて、この世界はもっとうまくできていると思っていた僕の認識を、ガラッと変えられた。なんだよ、世界ってダメダメじゃん、みたいなさ。

多分いろんな本を読むようになって、一番得たものって、この世界っていうがどれだけうまく回ってなくて、不備だらけだってこと思い知ったことなんだよね。それこそフィクションみたいなご都合主義じゃないってことなんだけど、フィクション好きの僕ですら、もっと現実世界はうまくできているご都合主義でできていると思ってたのに、その認識がやっぱり現実ってクソゲーじゃねーかっていう確認できたのね。

ただだからと言って、現実に悲観しているわけじゃなくて、そんなクソゲーみたいな現実世界をよくしようと活動している人たちの姿も多く見てきてわけで、今まで物語の登場人物にしか共感してこなかった僕が、だんだんと現実の人間も結構やるじゃねえかになってきた。

 

現代において小説に力はない

100年前のネットがなければ、さらにテレビもなかった時代、もっとも流布していたメディアは小説だった。

僕は映像の世紀っていうドキュメンタリーで知ったんだけど、100年前の世界中で尊敬されるスターっていうのは小説家だったらしい。まあテレビで芸人が見られないなら、小説家に大衆が目写りするっていうのは当然といえば当然だ。

映像の世紀でいろんな場所を汽車を行脚して、その度に大衆に盛大に出迎えられているシーンを見ていて、ああ100年前における、ユーチューバーってトルストイだったんだろうなー、とか思いなが見てた。

 

ブンブンハローノベル、どうも、トルストインです、みたいなww

 

ただテレビが台頭して、さらにネットが台頭して、相対的に小説というメディアは力を失っているっていうのが現実だろう。今一番注目されていて力を持っているのは、ヒカキンやはじめしゃちょーとかで、小説家っていうのは、もう大した力を持っていないんじゃないかと思う。かろうじでハルヒとか化物語、あと東野圭吾とかのミステリー小説(ミステリー小説は謎解きっていうストーリー展開のギミックがある点で、他のマンガやラノベと差別化を図っていて、しかもドラマ化との相性もいいので、人気を保っている)が力があるかもしれないけど、それもアニメやドラマていうテレビの力を借りているからできることだ。もう小説単体の純文学にはなんの力もないっていうのが、僕の見解だ。

だから最近マンガ大賞を受賞した、小説家になる方法っていうマンガがあって、立ち読みした感じ、そこではまだ小説の活字の力を信じている、っていうのが描写されてるんだけど、うーん、僕はそれには否定派の人間だ。 

響~小説家になる方法~ 1 (ビッグコミックス)

響~小説家になる方法~ 1 (ビッグコミックス)

 

 ハルヒ化物語もアニメの力を借りて有名になったし、この前芥川賞を受賞した小説だってテレビの芸能人だったし、小説単体にしかも純文学にはもう力がないよね、って思っていて、その認識に至らないのは、純文学の世界に身を置いていて、世界が見えていないんじゃないかーとか思っている。僕はそういう風に自分の好きなものがナンバーワンだって思う青臭さは好きで、昔の僕がそんな感じだったから、シンパシーを感じるんだけど、実際問題やっぱ小説に力ないっすよ。今はヨウツベマンとか実況者とか、あとマンガのワンピースとかが主流っすよ。ハルヒ純文学はオワコンっすよ、と指摘したくなる。

 

それでもSF小説はまだ使える

僕はラノベやミステリー小説は読まなくなったけど、SF小説はまだ読んでいる。それってなぜかというと、SFには人々に未来へのビジョンを見せるという機能がついているからだ。SF小説を読むことはエンジニアの基礎運動だ、と小飼弾が発言していた通り、SFにしかできないあ科学とテクノロジーに基づいた、根拠のあるファンタジーっていうのは、人間の想像力を育むための道具として有用である。それは他のマンガやラノベやアニメではできないことだ。そこに差別化がなされていて、しかも僕はエンジニアになるために今は修行中なので、息抜きついでにフィクションも楽しみつつ、アイディアも得て、一石二鳥のお得な読書ライフを満喫している。

 

まとめ

小説で得たものもたくさんあったけど、10代の頃もっとノンフィクションを読んでいれば、もっと社会的に上にいけた、もっと現実への還元率を高めてリアルを充実させることができたかもしれないという、後悔があることも確かだ。

もう十分ラノベもミステリもマンガもアニメも楽しんだから、これからノンフィクションで教養を高めて、SFで想像力を養っていきたい。

 

今回はそのための決意表明だ。

 

もっといえば、本だけじゃなくて、いろんな人とも会って人生を楽しめたらいいよなー、と最近は考えている。

 

ようはもっと楽しく生きたいから、小説を読まなくなったって話だ。

 

フィクションもノンフィクションも含めて、この世界は芳醇だからな